フィールドにて 11

 

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■ バンド関係近況(07年5月29日)

 昨年秋に、20年ぶりに音楽に復帰しました。中古のトロンボーンを買い、社会人の吹奏楽団を探して、今は都内のバンドで毎週1回吹いてます。
 去る5月20日には、定期演奏会にも出てきました。


 今は「のだめ」効果などでクラシックが人気なので、大変な数の楽団があるのですが、自分に合ったバンドを探すには、意外に時間がかかりました。練習日がいつか、年齢層は若すぎないか、どれくらい真面目にやっているか、楽団としての技量や目標は自分に合っているか、場所は近いか、それ以前に自分の楽器が募集中か・・・。


 いったんは、藤沢のバンドに入団したのですが、非常にレベルが高い反面、さまざまな雰囲気が自分にはどうしても合わず、結局、今の団に入りなおしました。


 新しく学んだことがたくさんありました。
 音大を卒業する人は毎年大勢いるけれども、音楽の就職先は本当に限られていること。
 (前にも紹介した)コンクールでは、音楽の限られた面だけを評価されてしまうといって、優れた技量を持ちながら、あえて出場しないバンドもある一方、コンクールで賞を取るためだけに活動する、メンバー不定の季節バンドもあるなど、オトナになると趣味趣向もさまざまなこと。
 どのバンドも、指揮者の指導料や楽譜の購入費などの工面に苦労し、練習場所や楽器置き場の確保に奔走していること。


 私のように、30も半ばになってから音楽に復帰する人は多くはありませんが、幸い、そういう境遇の人間でも自然体で活動できる団体が見つかったので、喜んでいます。先日は、TVで「ママさんブラス」と称して、子育て世代の女の人が音楽に復帰する姿が報じられていたそうですが、なぜかそういうものに無性に触れなおしたい年代なのでしょうか?

 ただ、あるいはお気づきの方もおられるかもしれませんが、さすがに釣りの頻度は下がりました(汗)。シーズン07は、「量より質」でいきます(笑)。


 


■ 長男の誕生日プレゼント(07年2月10日)

 年末、長男にフライロッドを買ってやったのだが、2月7日は誕生日なので、今度はリールを買ってやった。壊れにくくて、デザインが無難なもの、そして安価なものということで、ダイワのロッホモアにした。ラインやバッキングの色は長男に選ばせた。無難な色を選んでいた。

 これで、今年は子供と一緒に釣りに行ける。体もだいぶ大きくなってきたので、軽い渓流なら大丈夫だろう。

 実は、昨年秋から町の吹奏楽団に入っており、土曜日は練習があるから、家族との関係で、これまでの頻度で釣りに行くのは難しい。でも、子供と一緒に行けるなら、そう悪くもないなと思っている。

■ オリオン座とシリウス(06年12月31日)

 毎年年越しをする八ヶ岳へ今年もやってきた。よく晴れて寒さが厳しいが、夜空がすばらしくきれいだったので、星空撮影をやってみた。

 まずは、みんな知ってるオリオン座と、全天一明るい恒星シリウスが属するおおいぬ座。

 天体望遠鏡用の赤道儀を用い、(星の動きをモーターでトレースして)長時間露光させ、天の川をくっきりと撮るというのが今回のテーマだったが、あいにく月が真上で輝いていて空が明るく、肉眼では4等星がやっと。

 色々試したあげく、結局モーターを止めて、30秒だけの露光で撮ってみたのがこの写真。これ以上長い時間シャッターを開けていると、空が明るくなってしまうのであった。

 
 その明るいお月さま。雪景色の中、月光がすべてを射るように降り注ぐ。
 オリオン座の三つ星のすぐ下にある小三ツ星の真ん中は、星ではなくM42という星雲であり、そこでは星の赤ちゃんが産まれている。
 夜半、月が山陰に沈んだ後に、改めて撮影を試みた。木々の合間に冬の大三角形が見える。

 気温は−12度。寒くてもう限界。
 月は沈んだが、まだ西空は明るく、プレアデス星団を撮ってはみたが、空が明るくなってしまった。
 翌日は、更に月が明るく、星空を見るにはあまりよい条件ではなかったが、木々の合間に輝く星たちの光は、寒さのせいだけではなく、身震いさせるものだった。

 「清里の父」について(07年1月2日)

 清里といえば「清泉寮」のソフトクリーム。ジャージー種の乳牛が出す脂肪分の多いミルクを使っている(と聞く)ソフトクリームは、甘くて冷たいものが苦手の私には違いがよくわからないのだが(汗)、清里観光のひとつの目玉である。


 清泉寮へ行くと、随所で「ポール・ラッシュ」の名を目にする。しかし、20年も清里に足を運んでいながら、そもそもラッシュさんとは何者か、よく考えたこともなかった(汗)。


 元日に老舗「ロック」へお昼を食べに行った際、ラッシュさんの言葉が写真のように掲示されていた。
"Do your best, and it must be first class" - Paul Rusch とある。これで興味を持って、少々調べてみた。


 ラッシュさんは、1898年生まれ(今年生誕110年)。1925年に宣教師として初来日し、立教大学の教壇に立ちつつ、38年からは清里にキリスト教の研修施設を造り、酪農を中心に据えた新たな農村共同体を建設せんとの企てを開始した。その中心となった施設が清泉寮である。経営主体は、「キープ協会」であり、今日まで事業を継続している。ちなみにキープとは、Kiyosato Educational Experiment Projectsの略だそうだ。ちなみに、清泉寮について、多くの人はソフトクリームと牧場、せいぜいレストランくらいしか知らないが、ホームページを見ると、実に色々な活動をしている。


 さて、開戦により42年に米国へ送還されたが、終戦と共にGHQの情報将校として再来日。清泉寮を再建して、日本再生のひとつの拠点にしようと努めた。気象条件が非常に厳しい八ヶ岳高原の寒村が自律して安定的な生活を営めるよう、日本人職員とともに、生活改善運動を実施するなどした。その思想的拠り所は、キリスト教であり、民主主義であった。


 ただし、思想的な啓蒙は、急進的ではなかったようだ。キープ協会の正木専務理事が昨年5月1日の日経新聞に書いておられたが、"Democracy in KIMONO"を口癖に、米国の価値観を一方的に押し付けることを忌避していたらしい。民主主義などの価値を国際的に伝播する際のやり方は、今行われている米国の対イラク政策の見直しでも議論されており、古くて新しい論点であることがわかる。


 1979年に亡くなるまで、清里を離れず、最後まで精力的に活動した。清里はすっかり観光地となったが、よく考えれば、ここは日本で一番標高の高い高原地帯であり、温暖化した今日でも、冬にはすぐ−15度にまで下がる。今年で40周年になる野辺山(清里の隣町)の別荘地「八ヶ岳高原海ノ口自然郷」が開発され始めた際も、湿地帯との闘いだったと聞く。このような厳しい地で農村生活の安定を図ることがいかに難しいことだったか、今更ながらに思いを致し、地元の人たちが彼を「清里の父」と呼ぶ理由がわかる気がした。


 また、清里は身近な場所であったが、軽井沢(古くは中山道の一宿であり、明治の半ばからは別荘地として発展)や、奥日光(在京の外交団が避暑に集結し、「夏の外務省」とも言われた)とは異なる、まだ浅いけれども独特の歴史的背景を持つ地域であることを知り、思いを新たにした正月であった。

清里の「ロック」にて