フィールドにて 9

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 音楽が蘇らせた記憶 (06年12月7日)

 今秋の「フィールドにて」では、音楽の話を何度か取り上げたが、実は11月末から、神奈川県のアマチュア吹奏楽団で管楽器を演奏している。20年以上前に吹いていたのだが、熟慮の末、復活することを決めたのだ。

 まず入る楽団を探すのが思いのほか大変だった。家族や仕事との関係上、練習は土曜日の夜だけであって欲しい(釣りもあるし(汗))。どの楽団も入るにはオーディションに合格しないといけないが、なにせ人生の半分以上の期間、吹いていないのだ。最初はヘタクソでもよいと言ってくれる心優しいバンドはないだろうか。そして、そもそも自分のパート(楽器)が募集中であることが大前提・・・。

 ネットで探して、良さそうな所に見学希望のメールを出していく。 最終的に、上述の条件を満たしているらしい楽団を見つけた。見学をしてみたところ、練習もメリハリを付けてやっていることに加え、「バンド運営を安定化させるために、あえて30代以上大歓迎」と面白いことを言っており、そこに工夫と智恵を感じて、入団を申し込むことにした。

 20年ぶりに合奏に参加して、勘を取り戻すのに苦労もしたが、山奥の未知の渓流へ単身分け入ってゆくあの興奮とは異質な、しかし他では得られない楽しさを久しぶりに味わえた。

 楽譜、音程合わせ、指揮者が繰り出す様々な専門用語・・・。20年を経ても意外と忘れていない。とまどいつつもすぐ違和感なく集団の輪の中に取り込まれたので、音楽は自転車と同じようなものなのだなと思った。

 ところで、その日の練習で、ある哀愁溢れる名曲の演奏に参加した際、なぜか音楽に没頭していた中学生の頃に出会った哀しい話を急に思い出した。

(以下引用)
「都会の死角」 貧しさに散った20歳(1983年12月25日(日)、朝日新聞「ニュース三面鏡」)

 東京都千代田区内幸町二丁目の高層ビル(二十九階建て)から飛び降り自殺し、植え込みの中で二十三日、三カ月ぶりに見つかった品川区南品川二丁目、電気会社勤務小松原緑さん(二〇)は、母子家庭で、一人東京に働きに出ていた。秋田の実家に仕送りを続け、自分はぎりぎりの生活をしていた。貧しさに追い詰められてみずからの命を絶ったと見られている。華やかな都会の陰の、孤独でみじめだった青春は、散ったあともビルの谷間の人の渦の中で、三カ月もさみしく土に埋もれていた。

 警察の調べや周囲の人たちの話によると、緑さんは秋田市の高校を卒業後すく上京、一年間ほどバスガイドをしたあと臨時職員として現在の会社に入社し半年ほどで正社員になった。

 毎月手取り七、八万円の収入で三、四万円を仕送りしていた。秋田の実家では早くに父親が病死し、母親と弟一人の母子家庭。高校生のころに自分が一時、ぐれかけた後悔から、「母と弟を自分が支えねばならない」との強烈な責任感を感じていたようだ。

 上京して以来、夜の外食はもちろん、スーパーや百貨店での買い物すら一度もしたことはなかったという。社員寮でもそうめんやそばなどめん類ばかりの食事。だれにも打ち明けられなかった。

 九月二十一日、最初の失跡のあと、いったん戻った彼女に、寮の人たちがスパゲティや焼き肉をごちそうすると、「こんなごちそうは初めて。私は料理もほとんど知らないのよ」と恥ずかしそうに笑いながら喜んで食べた。

 この時は、「銀座に出てビルの屋上に上ったけど怖くて死ねなかった」「奥多摩に行ったら、幸せそうな子ども連れの家族とすれ違い、親切にしてくれた管理人さん一家を思い出して戻って来た」と話していた。「おとなしい内向的な子で、温かい家庭の愛情に飢えていた」と親しかった人は言う。若い女性らしい飾りも無い、殺風景な暗い部屋。九月二十五日、「カーテンをつけて気分を変えたら?」と勧められ、近くのスーパーに初めて連れて行かれたが、「六千円」の値札に二の足を踏んだ。友人が予備に持っていた明るい色のカーテン布をプレゼントすると。喜んでレールを買って、数時間がかりでとりつけていた。が、その翌日失跡。二度と帰らなかった。

 遺体がしっかり抱えていたバッグの中の所持金は十円玉二十一枚。主の消えた部屋からは「色々ご親切にして頂きました。でももうこれ以上生きて行く気力がありません」との書き置きと、定期預金通帳(額面十万円)が残されていた。

 「病気などの不時に備え、絶対に取っておきなさいね」とアドバイスされた直後、「実家の冷蔵庫が壊れて、すぐ送らねばならなくなった。私どうしたらいいの。どうにもならない・・・・・・」と頭を抱え込んでいた「トラの子」だった。

 高さ百二十bの屋上から最後に見た大都市・東京の風景は、彼女の目にどう映ったのだろうか。(引用終わり)

◇◇◇◇◇

 この記事は、中学生時代、ちょうど学校でラッパを吹いていたころに読んで、親子で涙して以来、クリスマスの頃になると、ふとした拍子に思い出してきた。1983年といえば、わずか20年ほど前。松田聖子の「瞳はダイアモンド」、尾崎豊の「17歳の地図」、H20の「想い出が一杯」の年である。彼女が亡くなった日比谷シティへは、そうと知らずに、ときどき昼ごはんを食べに行っていた。東京の真ん中でこんなことがあったなんて。。。

 上述の曲を吹いてなぜ思い出したのかは自分でもよくわからない。その頃演奏したことがあるからだろうか。20年経っても覚えている新聞記事は、後にも先にもこれだけである。そういえば、新聞紙上で特定の故人を名字でなく「緑さん」とファーストネームで呼んでいる記事も、他に記憶がない。取材した記者が渾身で書き上げた緑さんへの鎮魂歌だったのだろう。

 12月6日付けの各紙によれば、国連大学の調査で、世界では最富裕層1%が富の40%を独占し、国別で見れば日本人が最も豊かであるとのこと。昔からこの種のデータは色々あって、世界が100人の村だったら、という物語もあったが、今は更に極端な事態になっているということらしい。師走になって冷えてきて、帰り道、のらねこにも同情を覚える季節、色々なことを思い出した一日だった。


■ 親切な人の街にて (06年12月2日)

 車内に釣り道具を置いておくと、湿気でカビたりするので、ウェーダーやシューズは外で干すことになるが、ある時、それらを家に置き忘れたまま出発してしまったことがあったので、そんなことがないよう、シューズを車の屋根で干したことがある。

 ある夜に帰宅したら、すぐに社から呼び出されたので、仕方がなく車で急行。暗かったこともあり、シューズを屋根に載せたことをすっかり忘れて、出発してしまった。

 深夜になって仕事が終わり、車に乗り込むところで気づいた。仕事で呼び出されるわ、靴を落とすわでがっかりしたが、家に戻って、走った経路を歩いてたどってみた。しかし、暗いこともあってか、結局見つからずじまいだった。

 まだ新しい靴だったので、諦めきれず、1週間後に再度、今度は家から1km以上も進んだ幹線道路の手前まで探してみた。そしたら、あったのである。道端に揃えて置いてある。

 家からその場所へは、6回も右左折し、急な坂道を登る。よくここまで屋根の上に載っていたものだとびっくりした。

 それよりも、おそらく道路の真ん中に放り出された汚れた靴を、誰かが拾って、揃えておいてくれたと思うと、感謝の気持ちで一杯になった。

 今日、健康のため、長男と一緒に渋谷まで約1時間の散歩をしたが、その際、久しぶりにその場所を通過した。よく見ると、そこは小さな社の一角だった。

 親切な人と、神様にお礼を言って、その場を後にした。

■ 音楽のコンクール(本番編)(06年10月22日)
 この「フィールドにて」も、禁漁になってからは、なんだか
趣旨不明瞭のブログと化してきた気配があるが、ご容赦ください(汗)。
 先日書いたとおり、長男が楽器を始めたので、吹奏楽コンクールの全国大会を見に行くことになった。苦労してチケットを入手して、10月22日、いざ本番とあいなった。
 チケットが一枚「自由席」だったので、長男の座席(指定席)になるべく近い席を取ろうと、開場30分前に会場へ到着したが、
またしても甘かった(汗)。既に数百人が列を成している。
 コンビニでおにぎりでも買って、のんびり開場を待とうと思っていたのが大きな間違いで、ジリジリと待つ羽目になった。先頭の方を覗きに行くと、ゴザ敷いて待っている人までいる。
 開場になると、みな制止も聞かずに小走りで、場所取りに余念がない。僕は運よく、長男の指定席にほど近い場所を確保できて一安心。

 
  我々が行った「午前の部」は、全国代表29校のうち15校が順々に登場する。4曲の課題曲の中から選ぶ任意の1曲と、自由曲を合計12分間以内で演奏する。なにしろ全国3,278団体の頂点の29校である。都の予選で聴いたのと比べると、圧倒的にうまい。課題曲(毎年これ用に作られる新曲)がいまひとつ魅力に欠けるので、飽きがきたが、自由曲はどの学校もまことによく練習しており、「すごいすごい、次の学校はどんな演奏を聴かせてくれるか」と楽しんでいる間に、あっという間に終わってしまった。
 15校のうち5校が「金賞」だったが、これらの学校の演奏は、明らかに他を圧倒して上手だった。ソロで聴ける個々人の技量も立派だったし、合わせにくそうな局面もバッチリで、しかも表現力が素晴らしかった。
 何よりも、1年間この日のために全員で力を合わせてきたという雰囲気を目の当たりにして、プロには色々及ばないにしても、コンクールならではの楽しさを味わえたのがよかった。満席の周囲を眺めると、居眠りしている人が全然いないことが印象に残った。うちの家族も、子供だからわけわからず寝るんじゃないかと思っていたら、さにあらず。いろいろ評論などして、頼もしい。
 表彰式で「金賞」が読み上げられた時の大歓声は、女の子が多いこともあるが、初めての人は心臓に悪いくらいに激しい。また、壇上で賞を渡される指揮者(学校の先生)に
「先生だいすきー」などとチーム全員が黄色い声で絶叫しているのを見ると、これほど幸せな学校の先生というのは滅多にいないのではないかとも思った。醒めた目で見れば相当気恥ずかしいことかもしれないが、こんな時代であっても、ひとつのものにかくも全身全霊没頭している高校生をみると、なんだか明るく嬉しい気分になってくる。
 ただ、気合に当てられて、名画を美術館で見続けた後のような疲労感が残り、帰りの電車では爆睡であった(笑)。
 

■ 愛知と和歌山へ(06年10月20日)
 愛知と和歌山へ一泊の講演出張に出かけた。どちらも相手は、高校生である。
 新幹線旅行は、田舎のない僕にとっては実に楽しい。いろんなビジネスマンが颯爽とホームを行きかっているし、特にスーツを着た女の人がしゃきっとホームを歩いていてかっこいい。いつ乗っても、「速いなあ」とうれしくなる。JRの友人に聞いたら、開業以来40年、平均の遅延時間がわずか18秒(2003年度はたったの6秒)という世界ダントツの超正確列車なんだそうだ。東海道新幹線なんて、資金の制約で、線路の下は土盛りらしい。その上を270km/hでぶっとばして、旅客死者数ゼロなのだから、やっぱり日本人はエラいのだ。

 さて、今回、最初の学校は、名古屋から1時間ほど離れた町にある県立高校。体育館に1,000人ほど、そして先生たちも集まって、立派な講演会を準備してくれた。いつも思うのだが、都会の学校の生徒と違って、田舎の子は聞き漏らすまいと一生懸命聞いていて、ほとんど寝るやつがいない。終わった後も、20人ほどの生徒から別室で1時間以上も質問攻め。将来に貪欲な、真剣な生徒たちで、わざわざ行った甲斐があったと本心から思った。
 
♪♪♪♪♪
 翌日は、和歌山の県立高校。ここでも、シャイだけれども熱心な生徒たちがよく質問をしてかわいかった。
 女子の方が多く、しかもパワーで男子を圧倒している。質問も女子からの方がずっと多い。男子どもは、おとなしく尻に敷かれている感じで、なんともほほえましかった。しっかり者の女の子が、モジモジして質問しない男子に「あんたたち、何しに来たのよ」と軽く叱ったりしている。
 3時間ほど学校に滞在した後、先生が、和歌山駅近くのラーメン屋「井出商店」に連れて行ってくれた。なんでも、何年か前のTVチャンピオンで全国No.1になったお店なんだそうだ。豚骨ベースでこってりしていて、少々癖があるがうまかった。生まれて初めて和歌山に来たので、名物のお店に来られて、良い思い出になった。


 それにしても、生徒たちと話していると、「大学行くにはやっぱり予備校行かなきゃダメですか?」 と真剣に質問されて、気になった。駅の周辺には塾や予備校がたくさんあるが、よく見ると、予備校の名前の横に「衛星」と書いてあったりする。つまり東京の大手予備校からビデオ映像が送られてくるのだ。もちろんそれでも勉強はできるだろうが、生徒たちは大都会に受験情報が溢れ、インフラが整っているのをよく知っていて、彼らなりに焦りや不安を感じているのかもしれない。
 何年か後、あの子たちが夢をかなえて、頑張ってる姿を見られたらどんなにうれしいだろう、と思い、心から応援する気持ちを残しつつ、和歌山を後にしたのである。

 東京に戻ってきて、品川駅から山手線に乗る。いつも乗る電車なのに、他所から来ると、なぜか新鮮なのが不思議。まるで自分の街じゃないみたいだ。偶然、乗客から「この電車、新宿行きます?」と問われて、「ハイ行きますよ」とすぐ答えられたことで、「そうだそうだ、オレはこの街の人間だったんだよな」と思った。

♪ バンド狂騒曲〜チケット編〜(06年10月14日)

 小学生の長男が学校で金管バンドに入ったので、8月に吹奏楽のコンクール予選を聴きに行ってみた。プロのコンサートより気楽で、しかも非常に熱心にやっているので、面白いからだ。

 コンクールは小学校から社会人の部までに分かれて行われるが、一番気合いが入っていて、「青春全部賭けてます」的雰囲気を味わえるのは高校の部なので、我々も高校の部を聴きに行った。高校生が演奏する曲は子供には難解なものも多いが、彼は意外に楽しめたようで、10月22日の全国大会を見に行くことになった。

 ところが、そのチケットは入手が超困難と聞いてたまげた。「要はあの日陰者の”ブラバン”でしょ、どうして??」と思う方も多いと思うが、最近、高校生の数ある部活の中でも勢力を伸ばしており、特に全国大会への道のりが甲子園以上に厳しいということで、
熱血・闘魂のスポ根部活と化しているようなのだ。2年前まで民放でやっていた特集番組が面白く、その効果もあるらしい。

 予選(東京ブロック大会)は、100近い高校から選ばれた10数校が演奏して、そこから2校を全国大会への代表に選抜する。東京から2校というのは甲子園と同じだが、例えば九州沖縄ブロックでは、
8県からたったの3校だけ。なるほど、これは厳しい。

 10数校もあると、確かにレベルはまちまちだが、とにかくその真剣な表情、一”音”入魂の迫力には感動した。1年間、この日のために全員で力を合わせてきたオーラが出ている。

 聴いている方も慣れたもので、人気のある曲の好演には、一緒にノって喝采を送り、聞き慣れない曲の演奏には、面白い曲を有り難うと言って拍手する。そして、全国大会の盛り上がりは予選の比ではないのだ。

 全国大会のチケットは、9月30日にぴあの電話で売りに出された。それに先だって色々情報収集すると、「
去年は2分で売り切れた」、「10人で手分けして電話をかけまくったが、ようやく繋がった時には完売していた」、「定価は2,500円なのに、ヤフオクでは2万5千円(!)の値がついた」などと、大変なことが書いてある。アマチュアのバンドなのに???

 状況はよくわからないが、まぁやってみようということで、当日は、家族を動員して、何台かの電話でかけてみたが、なるほど全然つながらない。1時間ほど頑張って、幸い、午前の部2枚と午後の部4枚が手に入った。ちなみに、午前・午後に分かれているのは、入場希望者が多すぎるので、参加29校を前半と後半に分けて入れ替え制にしてあるためである。今回は、曲目や出演団体の顔ぶれから見て、午前の方が楽しそうだった。家族4人で行くために、午後の部のチケットをどこかで午前の部と交換することを目指すことになった。

 しかし適当な交換の場がない。いろいろ見ていると、「2ちゃんねる」でコンクールのチケットが話題になって異常に盛り上がっている。ちなみに2ちゃんねるでの検索語順位で「吹奏楽」はなんと6位。なんとも
熱いニッチ分野があるものだと驚いた。結局、あるネット上のつながりで、交換や譲渡を済ませることができた。

 この種の興行になると、きまってチケットゲッターと呼ばれる人たちや業者が転売目的で組織的に電話をかけまくると聞く。なるほど、チケット販売終了後のヤフオクでは、一人で何十枚も、各1〜2万円の値で売り出している。彼らは、この時点では、ぴあからチケットの予約番号を得ているだけ、つまり、組織的電話攻勢で得た「購入の権利」だけを販売しているわけで、売れなければチケットを発券しなければいいので、ノーリスクで儲けることができる。出演校の親御さんなどが田舎からかけまくっても取れず、落胆している姿を想像するに、よくない話だと思った。
 しかし、そのうち、ヤフオクのルールに反しているとかで次々と削除され、実際に発券されたチケットだけが写真付きで出品されるようになった。同時に価格も落ち着いていった。自浄作用が働いたことに、とても安堵した。

 ♪ さて、当日がどんなかは、10月22日後に報告します。今回は一風変わった話でした。。。