第6章 九州


8月13日 20日目 晴れ 徳山〜下関

 朝は早く目が覚めた。しかし、洗濯物がまだ乾いていなかったので、しばらくのんびりし、9時ころ出発した。すぐに峠が待ち構えていたが、気分は軽く、苦もなく進んでいけた。
 国道2号線をひた走る。道路標識により、下関が近づいてくるのがよくわかるので、うれしい。

 右の写真は、山陽新幹線の厚狭(あさ)駅からほど近い場所。
 途中の町で休憩した際、カメラとTシャツを購入。カメラは壊れてしまったのだが、この旅の記録を残すには散財もやむなしと思って買いなおした。Tシャツは、雨に濡れた洗濯物が乾かずに溜まっていたためである。

 下関に近づいたところで倉敷で会ったM君と再会し、抜きつ抜かれつしながら、結局一緒に下関市火の山YHへ到着した。関門海峡をよく見渡せる丘の上にある。二人で坂道を自転車を押して上がった。

 夜はM君と一緒にピアノを弾いたり、酒も飲まずに語り合ったりした。大きな物音に驚いてベランダへ出ると、関門海峡で大きな花火が上がっていた。いつしか8月も半ば、お盆の休みに入っていたことに気づく。

 この日の走行距離は、84.9km。2,374kmかけて北海道から本州の西端まで走り抜けたことになる。感無量。さあ行くぞ、最後の九州だ。
8月14日 21日目 晴れ 下関〜瀬高(福岡県)
 朝はずいぶんゆっくり、M君と一緒に出発した。関門海峡をどうやって通るのか考えたこともなかったが、着いてみると、自転車や歩行者の場合、地下トンネルを通ることになっていた。右の写真のように、エレベーターで地下へ降りる。

ハンサムなM君
 
 トンネルの様子。ゆるやかな下り坂になっていて、下がりきったところの床に福岡県との県境が表示されている。

 福岡側で地上へ出ると、そこは公園のようになっていて、海峡がよく見える。波が逆巻いていて、海流が激しいことが見て取れた。

二人で記念撮影

 門司港の辺りでM君と別れ、3号線をゆっくり福岡市方面へ走る。
 大幹線道なのに舗装が悪く、また、車が多いのでとても疲れた。

 北九州市に入り、地図を眺めて進む方向に悩む。せっかくだから中心都市福岡市を見てみたい気もあったが、鹿児島まで行くのであれば、北九州から南下して熊本へ向かった方が早い。疲れていたこともあって、福岡は通過せず、北九州市街から200号線に入ることにした。福岡市を迂回して、有明海方面へ直行するわけである。
 

北九州にて
 200号線は、いきなり果てしなく続く上り坂で参った。「根性、根性」呟きながら上っていく。ようやく下り坂になり、手放し運転で駆け下りていたら、後ろのタイヤがパンクした。炎天下、駐車場の砂利の上であぐらをかいて修理した。国道は渋滞していて、ゆっくり通過する車の助手席から気の毒そうに僕を見る人が何人もいた。

 実は、就職して同期となった友人がこの辺りの出身で、200号線の上り坂が長いこと、下ると新幹線の高架をくぐること、高速道路のICそばにファミリーマートかローソンがあって、そこでアイスを買ったことなど、覚えていたことを話したところ、位置関係はそっくりそのとおりだと言われ、結構細かいことまで覚えているなと面白かった。

 さて、必死に漕いで直方まで着いたが、あまりの暑さに耐えかね、ついに遠賀川の橋の下で昼寝をした。今回は公園だの道路の高架下だの、最後は橋の下で寝たが、不思議なもので段々抵抗感がなくなってくる。

 汗だくになって起きて、水分を補給してから国道を更に南下する。あまりの暑さと交通量の多さに意識がぼおっとし、向かい風もあって、それまでで一番辛かった。しかし、スピードもさほど落ちず、順調に進む。思えばずいぶん強くなったものだ。

 午後4時くらいに冷水峠に取り付く。日陰ができているので、そこを選んで走った。右の写真は、峠にもうすぐ着くところを振り返ったもの。

 今夜の宿は、瀬高町にあるルノワルYH。ルノワールがお好きなペアレントさんがやっておられる所で、建物は古い和風だが、館内にはルノアールのレプリカがたくさん貼ってある。

 紹介のHPには、僕が泊まった部屋まで載っていて、感激。ペアレントさん、そして同宿の人たちが非常に親切にしてくれ、僕の旅の話をたくさん聞きたがり、温かく応援してくれた。

 みんなの応援で気持ちが高揚し、よし、明日は最終ゴールの佐多岬まで一日で行ってやろうと決意。明け方に起きることにして、目覚ましをかけた。

 この日の走行距離は、129.2km。 

8月15日 22日目 晴れ→雨→晴れ 瀬高〜川内


 朝3時40分起床。同室だった学校の先生がわざわざ起きて、外まで見送ってくれた。なぜここまで親切にしてくださるのか。

 最後の日だと心に決めていたので、心は軽く、星降る中すっとばした。やがて夜明けが来た。見る見る明るくなり、セミが鳴きだす。今日もよく晴れそうだ。
 
 ところが、7時ころ、熊本市街に入る直前にパンク。持っていたスペアタイヤがなぜかうまくはまらない。リムが壊れそうになったので、やむなく押して歩く。水を差されたような気持ちで、スペアタイヤは途中のごみ箱に捨ててしまった。幸い自転車屋が同じ通り沿いにあったが、開店は9時。それまで所在なく自転車屋の前で待つ。クマゼミがクマモトらしく、シャーシャー元気に鳴いている。

 いざタイヤを買うと、なんと、もともと持っていたスペアタイヤとサイズが変わらない。単に力の入れ方の問題だったらしい。自分のアホさ加減にあきれながらもほっとして、捨てたタイヤを拾いに戻った。いざ再出発である。

 熊本市街に入ると、通過する乗用車の後部座席から高校生くらいの女の子が身を乗り出して応援してくれた。これで明るい気分がすっかり復活。肉体的に辛い自転車旅行では、こういうちょっとしたことで随分気分が晴れるのだ。

 今日も暑い。途中、激しい天気雨に襲われたが、ものともせずに突っ走る。午後遅い時間になって水俣へ着く。小学生の頃衝撃を受けた水俣病の映像と記事、それらを思い出して非常に神妙な気持ちで通過した。自転車旅行の青年と会って雑談する。

 すでに夕方になってしまったので、この日にゴールまで行くのは無理と判断。すでに真っ暗になった海沿いの国道を南下する。車の通行量は少なく、右側は海の暗闇で、かなり心細い。上を見上げると神々しいほどの星の数である。身震いするような気持ちを振り払うように、全速力でぶっとばした。

 途中、これからの道程を考えたら、自転車屋などない地域ばかりを走ることに気づいたので、パンクに備え、スペアタイヤをもうひとつ買い足すことにした。水俣から数十キロ南下した海沿いの街、阿久根市の商店街で自転車屋を見つけるが、すでに夜8時を回っており、店は閉まっている。公衆電話から、シャッターに書いてあった電話番号に祈るような思いでかけてみると、ご主人は親切にも店を開けて、タイヤを売ってくれた。迷惑をかけたことに侘びを言い、出発。

 この日は、阿久根市の南にある川内(せんだい)市(今の薩摩川内市)までが限界だった。駅近くのビジネスホテルに入る。隣に大きなスパがあって、リラックスできた。それにしても今日は疲れた。走行距離は、234.6kmと新記録である。明日こそ、ゴールを目指すぞ。

8月16日 23日目 晴れ後ち豪雨 川内〜佐多大泊

 朝7時に起き、8時に出発した。川内駅近くの鉄道の高架を越えると、県道が山間部へ向かっている。そこをひた走る。最初から坂だらけであるが、最後だからとペダルに力を込めた。

 坂をえっちらおっちら登っていた僕に後ろから来た乗用車がクラクションを強く鳴らした。何もない田舎道である。鳴らす必然性はないだろうと、運転席をきっと睨んだ。すると、その車、前の方ですーっと止まるではないか。おそろしくなって、後戻りして、別の道を行った。

 すっかり忘れた頃、後ろから同じ車が来て、併走し、若い運転手がものすごい形相で怒鳴っていった。
 これは精神的にかなり堪えた。田舎道でひとり、悔しい気持ちでしばしたたずんだ。
 何とか前向きな気持ちにならなきゃと鼓舞しながら、ペダルを漕いだ。しかし、朝は苦痛じゃなかった坂が、もう耐え難いものになっていた。漕ぐのをサボって何度も自転車を降りて押して登った。まだまだ精神的に弱い。 
ある峠にて

 平地に降りると、遠くに桜島が見えてきた。それと同時に、火山灰が目に入って非常に辛くなる。灰は汗で肌についてべとべとである。

桜島の遠望
 やむなく、眼鏡屋に入ってサングラスを買った。これで多少楽になる。

 海に出ると、輝く噴火湾、桜島の雄姿、噴煙、入道雲という雄大な景色に圧倒される。しかし暑い、暑すぎる。向かい風がひどい。火山灰も辛い。

もうすぐ海に出る
 途中で耐えられなくなり、港へ入り、護岸の上で昼寝した。炎天下のコンクリートの上で、何の遮蔽もなく寝たのだ。それほどまでに疲れていたのである。
 桜島を右手に南下する。桜島が後方に遠ざかるようになると、火山灰はめっきり少なくなり、非常に楽になった。右手に見える海は、南国の海そのものだった。青く、明るく澄みわたっている。対岸に喜入(きいれ)の石油基地が見える。高校の修学旅行で行ったので懐かしい。

 夕刻になり、いよいよ佐多が近づいてきた。地図をよくみると、佐多の町から佐多岬までは相当の距離があることに気づく。しかも山深い峠を越えていかねばならない。こりゃ、佐多岬まで今日中に行くのは無理だと理解する。岬の直近の集落である大泊(おおどまり)への到着を目標に据えた。

 右手を見ると、いつの間にか対岸に見えていた陸地が後方に遠ざかっている。今僕がいる大隈半島だけが南に突き出しているからだ。いよいよ九州最南端が近づいてきたのだ。

 佐多の町で国道は終わり、一気に細い山道になった。植生はジャングルのようで、坂の勾配とカーブの連続は、今回の旅でも最も過酷だった。

 しかも土砂降りの雨が降ってきたり、道路を派手な毛虫が列になって横断していたりと、試練の連続。薄暗くなってようやく大泊の集落へ到着。民宿に入り、風呂につかってからあっという間に寝入った。

 今日の走行距離は、170.5km。2日間で400km余りも走ったことになる。

8月17日 24日目 曇り後ち晴れ 佐多大泊〜佐多岬


 朝4時に起床。まだ真っ暗だが、ゴールへ向かって出発だ。風が棕櫚(しゅろ)の葉を鳴らし、時折驟雨(しゅうう)が襲う。ライトは点けているが、何か、とてつもなく大きな動物の懐へ飛び込んでいくような錯覚に襲われ、歯がガチガチ鳴った。

 峠にトンネルがある。電灯など点いているはずもない。入ると自転車のライトを反射する大き目の動物の目が二つ。走り去っていったが、引き返そうかと真剣に思うほど恐ろしかった。

 つらい峠をいくつか越えて、ようやく岬へ着く。自転車置き場から遊歩道を辿って奥へと向かう。もういいや、引き返そうと思ったが、24日間の旅の終着点なのだからと自分に言い聞かせ、展望台までたどり着いた。佐多岬の看板をカメラに収める。夜明けが近い海は、眼下遥か下に見えるが、岩場のスケールは大きく、激しい怒涛が白く砕け散っている。棕櫚の葉がぴゅ〜と不穏に鳴る。これがまた、「お化け出ますよ」というあの音にそっくりなのだ。勇気を出して遠望すると、底が赤く染まった雲、合間に見える紫色の空、水平線、そして見渡す限りの海、海、海。身震いは余計に激しくなり、足早に立ち去った。

 稚内を出てからの走行距離は、2,917km。自分が本当にこの距離を踏破したのだろうか。実感と喜び、そして達成感がじわじわと湧いてきた。初めて先を急ぐことなく、ペダルを漕ぐことを心底楽しみながら、大泊まで戻った。

 宿で一息ついたら、のんびり朝食をとり、その後、近所の商店から宅急便で自転車を東京まで送る手はずを整えた。そして、朝9時発のバスで大泊を離れる。

 根占からフェリーに乗って、対岸に渡り、JRで鹿児島へ。そこから特急で博多へ。夜行列車に乗り継ぐべく、新幹線で広島へ行き、そこで東京行きのブルートレインを捕まえた。三鷹の自宅へたどり着いたのは、翌日昼前であった。

富山で会ったマウンテンバイクの彼が送ってくれた佐多岬からの写真。遠くに対岸の開聞岳(922m)が見える。
(後記)
 東京に帰ってからも、秋田で泊めてくださったSU家のご夫妻とは手紙のやりとりが続いた。僕が就職したことをことのほか喜んでくださった。

 そして何年か前の9月、長男と次男を連れて、久しぶりに秋田へ行き、再びSU家のご厄介になった。すべてが記憶のままであった。子供連れの再訪をご夫妻はとても喜んでくださり、青森までドライブ旅行に連れて行ってくださった。その際、自転車で通過した時は行かなかった十二湖へ行った。化学なのか物理なのかわからない、真っ青で透明な水をたたえた不思議な湖があり、驚いた。

 SU家ご夫妻の温かさと優しさに再び触れ、自分も絶えず人にそういうものを与え続ける人でいないと、と改めて思った数日間であった。

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