第3章 新潟県〜富山県


8月3日、10日目 晴れ 鶴岡→村上

 YHを朝8時に出発。海岸沿いの国道7号線をひた走る。体調も万全で、5時間連続で平均20km/hを維持できた。つまり、昼過ぎまでに100km踏破したことになる。

 鼠ヶ関トンネルを抜けると、新潟との県境が待ち受けていた。5つ目の道県である。途中で会ったライダーから、「新潟は長い!」と聞かされていた。山形県境から富山県境まで300km程度あるらしい。さあ、何日で通過できるだろう。

 道はずっと海岸線に沿っていて、潮風が心地よい。しかも、途中から海の色が目に見えて美しくなった。岩場の海底に砂地があるのか、黒とエメラルドグリーンのツートンがまばらに散らばり、沖縄のサンゴ礁の海かと見まがうばかりの美しさである。地図を見ると、「∴」マーク(つまり景勝地)が付いた「笹川流れ」とある。この近辺では知られた場所なのだろう。夏休み本番ということもあってか、かなりの数の車が行き交う。車窓には子供用の浮き袋が見えたりして微笑ましい。(ちなみに、上にリンクしたサイト、是非見て下さい。爆笑ネタあり!)
  車内の子供達から、何度も「ガンバレー!」と声をかけてもらった。


第3章は富山まで

笹川流れ
 国道は、羽越本線と併走する。時折、夏休みの行楽客を満載した特急列車が通る。夏休みだということを実感する。これが僕にとって最後の夏休みであることも。

 道は、山と海の狭い隙間を縫うように走っている。トンネルが多く、緊張する。自転車でトンネルを通ると、閉鎖空間にトラックなどの走行音が轟きわたり、いくら明滅灯を点けていても、暗いので、いつ跳ね飛ばされるかわからない恐怖感に襲われる。また、風によって砂やゴミなどが自然に吹き飛ばされる露天の道とは異なり、トンネルの中では砂利などが路肩に溜まっているので、自転車にとっては非常に走りにくいのだ。

 長いトンネルの前では、必ず一休みして、ライトを点灯させ、「よし、いくぞ!」と気合を入れて全速力で走りぬき、無事に出ると、本当にほっとするのであった。
 時々現れる集落は、雪国だからか、どっしりとした家々を擁し、情緒がある。真っ黒な屋根の家ばかりの集落を見かけ、とても美しいと思った。
屋根がみんな黒い!
 今日の宿は、村上市近くにあるYH。お寺の一角を宿として開放しているものだった。16:30頃到着し、アカマツ林でアブラゼミが鳴きしきる中、畳の上で大の字になってくつろいだ。28歳の加藤さんと23歳のOL佐藤さんが同宿で、仲良くなって遅くまで語り合った。

 今日の走行距離は、160km。稚内からの合計で1,169kmに達したことになる。

8月4日 11日目 晴れ 村上→鯨波
 YHを朝8時頃出発。この日は非常に暑く、どうも気合が入らない。もともと上越市まで行くつもりだったのだが、無理かもしれないと思いながらペダルを漕いでいた。

 土曜日なので車が多く、若者の運転が乱暴で怖い。国道345号、113号と走り、新発田市に近づく頃には、非常に道が良くなって驚く。国道はずっと半高架のような形となり、舗装も整っていて、快適この上ない。「角栄効果」って本当にあるんだと実感する。

 昼ごろ、新潟駅前へ着いた。ショッピングビルもあって、やはり大都市である。市の中心部を抜けると国道は新潟大学のキャンパス側を通る。海岸沿いの広いキャンパスが印象に残った。

 その後、寺泊(てらどまり)を通過。海産物の土産物屋がたくさんあって、朝でもないのに「朝市」の幟が立っている。数え切れないほどの観光バスから観光客が降り立って買い物をしていた。僕も何か買いたいところだが、料理もできないし、諦めた。

 国道をひたすら走る。柏崎を越えたところにYHがあるようなので、そこまでは行きたいところ。途中で中華料理屋へ入った。暑いので、「いいとも」を見ながら「冷や中」を注文。そしたら、なんとサクランボとスイカが入っているではないか。酢豚にパイナップルや炒めたキュウリが入っているのが許せない僕である。果物入り冷やしラーメンなんて許せるものか。それにしても、その後20年近くになるが、未だにこういうサービス精神溢れる冷や中を見たことはない。

海岸沿いの道

 柏崎の市街地で自転車屋を見つけ、磨り減っていた前輪のブレーキシューを交換する。足回りが安定すると気分がよい。店内は冷房が効いて、よい休憩になった。

 そして、柏崎を越えて少しの所にある「鯨波」(くじらなみ)という場所にあるYHに入った。ここも前夜に引き続きお寺の一角が宿になっているものだ。海水浴が目的なのか、かなりの宿泊者がいる。

 あまりに皆が楽しそうにしているので、僕も海へ出かけることにした。鯨波海水浴場は徒歩で5分くらい。特別にきれいな海ではなかったが、家族連れなどが楽しそうに遊んでいる。ひと泳ぎの距離に防波堤があるので、そこまで泳いでみた。

 ただ、一人で海水浴というものほど味気ないものはない。直にさびしくなって、宿へ戻った。

 寝場所はお寺の本堂でびっくり。カップルが旅行していて、女の子はパーティションで囲まれた所で一人で寝ていた。こういう旅行もあるんだと印象に残った。新潟大の学生がいて、S君に会ったという。明日は追いつけるだろう。

 今日の走行距離は、70.3km。暑かったからと、自分を許す。

8月5日 12日目 曇り時々雷雨 鯨波→富山
 前日、あまり距離を稼げなかったので、朝5時半に出発。アラームに一発で起きた自分に、まだ捨てたものではないと思った。お寺らしくカラスが鳴く早朝、まだ涼しいうちにペダルを漕ぎ出した。ところが坂が多く、朝のうちに既に疲れてきた。

 朝8時頃、直江津に到着。工業地帯だけあって多数の煙突から煙が出ていた。空気もあまりよくない。そのうちポツポツと雨が降り出し、あっという間に雷雨となった。トラックが多く、驟雨の中で一人自転車で走るのはなかなか厳しい。しかも鉄道の高架橋の上り坂で踏ん張ったところでパンク。この旅初めてのパンクである。スペアは持っていたので、商店の軒先を借りて雨宿りしながら修理した。

街道沿いに無数にあるパチンコ屋
 
 上越市を越えたところから、山が海に近づいてきて、坂が多くなる。蒸し暑い中、とても辛かった。朝の豪雨に濡れたシャツを替えていないこともよくなかった。 

 そうこうしていると視界が開け、糸魚川市に出る。糸魚川と言えばフォッサマグナ。東西日本を分ける大地溝帯の西の端がここ糸魚川を通っていると学校で習った。確かに姫川の河口近くにある橋から上流を眺めると、急峻な山々が遠望できる中、大きな谷がずっと遠くまで続いている。

 実はこの日は、非常に緊張していた。難所で知られる「親不知」を通過する予定だったからだ。

 親不知は、山が海岸に迫り出し、その昔は海岸沿いの細い道しかなかったため、旅人が波にさらわれるなど、交通の難所として知られていた。中学や高校の混声合唱で岩河三郎作の「親知らず子知らず」を歌った人もいるかと思う。この歌はここが舞台。病に倒れた父親のもとへと向かう母子が波浪にさらわれてなくなる悲劇の話。

 今日では、高速道路も通っていて、特に話題にも上らないが、「チャリダー」にとっては、今も難所であることには変わりない。曲がりくねった坂道が延々と続き、かつ、トンネルが多い。路肩が狭い。大型トラックが非常に多い。転んだら、即、おしまいである。
 最初の坂にさしかかる前に一服し、気合を入れなおす。真昼ではあるが、ライトを点けて、荷物がバラけたりしないよう、紐で縛りなおす。車から見えやすいよう、白いトレーナーを着た。

 トンネルに入って背後を見ると、ライトをアップにした大型トレーラーが大音響とともに急速に近づいてくる。僕に気づいてくれているだろうか。全速力で漕ぐ。トンネルはカーブしていて、先がよくわからない。しかも路肩は非常に狭く、白線の1m左側はコンクリの壁である。カーブを曲がる。出口が見える。トレーラが来る前に外へ出たい。しかし間に合わずトレーラーが横を通過する。風圧で一旦トンネルの壁側に押し付けられるが、すぐに巻き風でトラック側へ引き寄せられる。その拍子に路肩の段差に細いタイヤが取られ、顛倒しそうになる。
 
 無我夢中でいくつもの坂とトンネルを越えた。気づくと目の前の視界が開け、「もう終わったのか?」と半信半疑のまま、手放し運転で坂を駆け下りた。「富山県」の表示が見えた。背中にびっしょりと汗をかいていた。

 富山県に入ると、「黒部」の文字が目に入ってくる。黒部については、第三ダムや第四ダム建設の際のドラマを当時既に聞きかじっており、日本随一の急峻な渓谷のイメージもあって、感慨があった。黒部川を渡る橋で一休みし、上流を遠望した。水は白く濁っていた。私は実は黒部フリーク。吉村昭の「高熱隋道」は、是非読んでいただきたいと思う。

 この辺りで、マウンテンバイクに乗った日焼けした青年に声をかけられた。日本縦断ではないが、富山を越えて西へ行くという。しばらく一緒に走ったが、すごい脚力で、スピードが全然違う。坂だけでなく、平地でも追いつかない。そのうち、長いトンネルに行き当たり、そこは自転車通行禁止の表示が出ている。彼は勇気あることにそのまま入っていってしまった。僕はただでさえトンネルが怖いので、集落を縫って走る側道へ入って迂回する。

 しばらくして戻った国道8号線は平坦で、走りやすい。至る所青い田が広がり、道路脇には水路があって透明な水が滔々と流れている。さすが水どころだ。そのうち、あるガソリンスタンドの端にわき水が出ているところがあった。ポリタンクに汲みに来ている人がいる。僕も生温かくなってしまっていたペットボトルの中身を捨て、冷えたわき水を入れた。頭から水をかぶったら、天然水だからか、なんだかトクした気がした。こういうわき水は、あちこちで見られた。黒部を過ぎると魚津に入る。魚津は1918年の米騒動の始まりとなった地だと覚えている。

 夕暮れ時になり、いよいよ富山市へ近づいた。今日は富山駅で寝ることにする。まずやることは銭湯探しだ。国道から適当に逸れて住宅街に入る。夕餉(ゆうげ)を準備する雰囲気が漂い、食器の当たる音や子供達の声が家々の中から聞こえてくる。そんな日常の空気に浸かりながら、民家の間をのんびり走る。そのうち、銭湯の煙突を見つけた。

 風呂から出ると、富山駅に向かう。すると、S君の自転車を発見。再会を喜び合う。先ほど会ったマウンテンバイクの彼もいた。この日、富山では夏祭りが行われており、彼らと一緒に城址公園へ行って見物することにした。昔懐かしいポンポン菓子などを作っていて、しばし見入った。

S君の自転車を発見!


夏祭りの富山城

 22時過ぎに駅へ戻り、構内に寝袋を敷いて寝ることにする。登山目的の人だろう、大勢の人が同じように寝ていた。ところが、間もなく奇声が聞こえ始める。どうも耳の不自由な人がここで寝泊まりしているらしく、声が出てしまうようなのだ。明日に備えて休んでいる旅人達は、みな眉間にしわを寄せながら、眠ろうと努力していている様子だった。

 ほどなく、マウンテンバイクの彼がむっくりと立ち上がり、そのおじさんに「うるさいからあっちへ行ってくれ」と言い出した。理解されないことがわかると、彼は、そのおじさんの腕を掴んで外へ連れ出そうとした。おじさんはわけがわからないといった表情で、大声で抗議の意思を表現した。それによって余計に騒がしくなって、何人かが起き出して様子を見守った。

 おじさんの声は確かにうるさく、寝心地の悪い場所で1時間でも余計に眠りたい旅人にとっては辛いことだった。ただ僕は、寝袋の中で切ない気持ちに襲われていた。このおじさんの両親はこの姿を見て、どんな気持ちになるだろうか。このおじさんは色々な経緯があってここにいるのだろう。手話はできない様子だった。どんな半生だったのだろうか。これからどうしていくのだろうか。旅の途中だからか、親のことを想った。

 今日の走行距離は、171.3km。明日は福井県までを目指す。

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第1章 北海道
第2章 青森県〜山形県
第4章 福井県〜兵庫県